内面への旅 (グルジと共にネパールにて、2012年9月8日〜10月9日)

2012年10月21日 372
体の状態は常に変わり続け、経験は飛び去り、カトマンズからシンドウリまでの『より長くより快適な』ガタゴト道を通り抜け、私達は丘の頂上にあるバレー・ヴュー・ホテルに9月8日の夕方近く到着した。そこからは二方向に農家や村や遠くの山々といった魅力的な眺めが見渡せた。ホテルの下方にある急斜面の二本のジグザグ道を通り抜けるとインターネット・カフェが二軒あり、そこから世界と連絡を続ける事ができた。とりわけここが三日間のマイトリ・プジャ(慈愛の儀式)が開かれる所であり、これから毎日グルジのすぐ下の高い所にある外国人サンガの席で祝福される事だろう。私達はこの年若い師が祝福を与えるのを、本当に近い距離から拝見できるのだ。そして私達全員がグルジの 恩恵を熱心に感じていた。

夕方帰宅して、この新しい環境にいる私達の知らせを、世界中で熱心に待っているサンガの仲間たちに送る『レポートをファイル』するため、歩いて降りて行った。さまざまなネパール人サンガたちの状況は、非常に遠く離れた世界のように見えたし、身体的に動きや目的地にさえ影響を与えていた。だが、慈愛の働きに深く反射し、まるで時が静かに伸びたかのように、内なる変容は続いていた。

野外に私達の宿坊を設置した所で、更に多くの活動の時が続いた。サンガのあるメンバーが一度私達にそっと教えてくれたように、『あまり外面の出来事にではなく、マインドの状態がここでは順番にテストされる』。そして内なる真実のゆっくりと長い追求が、しかしものすごい力で私に始まった。 とにかく他にする事はなかったのだ!

どうやってこの動きと動揺に反応しているのか。ホテルの部屋からテントと小屋に変わったという別の状況に対してなのか。マインドの状況は強烈に試されていた。 ほとんどの人が生まれてはじめてネパールに来ていて、その言葉も食べ物も慣習も知らなかった。世界全体の人口の2%の人々がコンピューターを保持すると、かつて台湾で聞いた事がある。さて、インターネットのサファーたちは皆(ラップトップをもって来た人は数人だけだったが)、こにように突然、人類の98%の中に深く潜り込んだ事に気づいたのだった。それぞれ細かい所でネパールの新しい側面とその文化をかいま見て、私達はグループとしてよくチャレンジしたと思う。私自身マインドの状態を吟味していると、わき上がる陰性に捕まり、ホテルまでの坂を歩いて上るのも、儀式への大きな階段を上るのも、ホテルの2階にまで歩くのも大変になるのがわかった。… そして自分自身に尋ね始めた。「誰が文句を言っているのか。分離はどこなのか。」 と。こうして、均衡を妨げるように微妙に波立つ似たような小さな小さなさざ波と、 師を祝い我々が一体になるようまとめてくれるサンガによって作り出される、よりすばらしい調和がはじまった。そしてゆっくりと、サンガのみんなや、あらゆる樹々、昆虫、風、砂との一体感が明白になった3月の儀式から、あの溶け込んだ感覚が戻って来た。… だが、ただ一つ意識が悩まされ続けたのは夜を供にした同室のサンガメンバーのいびきだった。分離の感覚が再び立ち上がってきて、 空気のリズミカルな流れに溶け込もうとし、 催眠の規則と共に起きる波を聞くように、 穏やかに出たり入ったりする息を聞こうと何度も試みた…が無駄だった。 失望し悩んだ。私は台風の音でも雄鶏の声でも人懐っこいヤモリの声でも眠れるのに、わからない、どうしてこうなのかと、あるサンガメンバーに尋ねた。いびきの音はある種の苦悩のサインで、母親は自分の子供たちの苦悩の音にいつも注意するよう訓練されていて油断がなく番をするものだ、と言って、彼女は一般的な知恵を分け合ってくれた。… この説明で落ち着き、罪悪感を感じるのをやめ、閉じられない耳と共に平安な気持ちになった….。

この間の日々は大いにためになった。すでに書いたようにサンガの外国人メンバーたちは、 グルや老若の僧侶たちと共に宿泊できた。 そこは農地にある丘になった帰依者の私有地で、広い河やパパイヤやバナナが繁った丘があり、いくぶん私の住む台湾と似ていた。星をちりばめた夜と冷え冷えとした風が所々に吹き、徐々に日がたつにつれ、大地の鼓動する静けさが地面にしみ込むのに気が付くようになり、今は収穫の時期で農夫が細い円型の鎌で稲を刈り入れているのにも気がいくようになった。長い茎は束にされ、時には木製の牛車の上に3メートルもの高さに積み上げられ、ゆっくりと家まで運ばれ、そこで天日の下、木製のマットの上で打ち付けられる。その他の場所では屋上や庭で、家族が大きな円形の竹のざるを持ち、もみを吹き分け、料理で使えるようにきちんと選別される。腕は飛び散る殻と一つになって踊り、次の植え付けのため畑を耕す男たちの足取りが、水牛や白い雄牛の動きと一つになる。女たちは地面に座って軒につるして乾かしてあったトウモロコシから、輝く固い赤い実をはぎながら見ている。私も試してみたが 取り出す事がどうしてもできなかった。女たちは笑い、その大きな掌でコーンの穂軸をやさしくなでると一度に数列取り出し、その光った実はまるで麻雀のパイの音のように滑らかに鳴り、ポトポト落ちて行った。このコーンの実をお米のように風で吹き分け、挽いて細かい粉にして乾熱し、お湯と砂糖で滋養のあるおいしいお粥となる。

この間おしゃべりもなければ、うわさ話もしない。ここの人の声は自然の静かな呼吸に包まれる。音はただ大地とその賜物に同調した動きにすぎない。シンプルに優雅に一体となっている。すべてが手作業と共にその中に強烈に吸収されているようだ。丁寧に、心を大きく広げて。心の乱れもなく、それぞれの行動に十分集中し、自然の大いなる仕組みへと変化しているように思える。このように写真の構図毎にフェルメールを思い起こさせる画像が現われ、真の禅道を感じる。 自然の身体的な潜在力と共に歩調を合わせ、ただリズミカルな動きがあるだけである。草原の中に、水際に、中庭に、屋根の上などあらゆる所に、太陽の照る中、耕す音、脱穀の音、殻を吹き分ける音が聞こえてきて、相互扶助の共同生活における、否定的な事や疑い、恐れ、差別のないはっきりとした結束と調和の思いに圧倒される。ネパールはどこでもこのようなのだろうか。それともグルジの周りだけなのだろうか。



11時をすぎると暑くなり、冷たいシャワーを浴びたくなる。赤トンボが1匹岩の上で静かに止まっている。河がざあざあと流れ、村人たちはもう巨大なバンヤンの樹の下の泉に集まって 来ていて、 すばやくのっぽな金物の水桶やプラスチックのたらいを持って来た。太陽が照る中(または月や星空の下) 三つの会場からこの四角い水汲み場まで集まり、その日の飲み水を集め、家族の衣服を洗濯し、公衆の視線にさらされて常に服を着たまま沐浴をする。このいくぶん雑然とした水汲み場は、村人だけでなく他の村の人や僧侶のためでもあり、しばしば雄牛が下方の河から上がって来ては行き来する。ある日炎天下でシャンプーをした後、ほとんど一杯入ったバケツの水を頭からゆっくりと贅沢にかけ、湧き水の長くゆったりとしたシャワーを浴びた。目を閉じると、沐浴の中ですべての感覚が暑い肌がゆっくりと冷めて行く祝福された感覚に集中した。水が私という個人全体に流れ落ちた後、目を開けた。私の足下でぬめっとした肌の2匹の黒い水牛が、その大きな頭を動かし飲んでいるのだけが見えた。 ああ、しかしこれはメロドラマっぽい!すまなく思ったちょうどその時、小さな男の子が木の棒を持ってやって来て、シッシッと言ってもとの道へ追い返した。水牛の長いカールしたまつ毛の下にある黒く優しい目は、純粋な愛と完全なる忍耐、そして信じられないほどの寛容をかもし出していた。不満だらけで批判的な人々よ! このような気高き師に深く頭を下げよう!

このような所が、昨日開かれた地を揺るがすイベントに変わった。まず深い羽音のような音が始まり、空中でかすかに聞こえてきた。まもなく子供が一人叫び、激しさを増し「ヘリコプター」という言葉が聞こえ、あわてふためいてグルジの丘のふもとまで駆け寄り、着陸の準備ができた; 真ん中に巨大な白い円周がある、はだけた茶色の地面だ。私は
200〜300メートル離れた屋根の上から、 ヘリコプターのように騒動に向かって駆けたり、バイクを走らせて行く老若男女の村人たちを眺めていた。ついに現実の姿が見え、近づき、今までのようにゆっくり落ち着いた。 その日はやく 、興奮ははるか、若い店屋のまさに第1子が誕生を迎えた。空からの訪問者はタイの帰依者のグループで、バンコクから直接グルジに会いに飛んで来て、その後同じように飛び去って行った。

今朝、オートバイの後ろに乗ってガタゴト道を通り、モンスーンが終わって干上がった大きな河を渡り街まで出かけた。オートバイでは街まで15分で行け、公共の交通機関を使うのとは比べ物にならなかった。後者で行くと、歩いて河を渡り、おんぼろのバスを待ち、また山羊やニワトリや大きな荷袋や油の入れ物といっしょに、ガタゴト道を行き、乗客は山羊を縛っている屋根に登らされ、風を楽しみながら街まで行くのに、片道2時間かかるのだ! この巨大な川底に高いパンパの草むらで持ち上がった柔らかい部分が多くあり、その草は涼しい風の中で揺れながら踊り続けている。さまざまな色調の白金色の光はその房をはずませ、目に眩しい。言葉に表せないほどの畏敬の念に圧倒され、祝福で頭から足まで浸される。



夕方デワがヒマラヤの山頂からはるばる歩いて来て、ずっと待っていたフランスからの姉妹の所へ連れて行ってくれた。

グルジの慈愛の国であるここでは、すべてが祝福だ。熱、寒さ、湿気、埃、足下の石、それぞれすべてが、我々と一体の一部であると同時に、異なった個々に顕れる。サンガのメンバーとしての自身と空間の、空間と樹々の、樹々と小屋や空や雲などの境界を見つめて来た。…実際何も存在しない、そして充分に収集し、宇宙の一体という現実に全て吸収される時、我々は実際にこれらの物がお互いに一つに溶け込む事が見える。

私自身、このような難解な事には初心者であるが、グルジが見事に体現してくださる慈愛、愛、慈悲の中に、幸福に完全に自分自身が溶け込むのを感じる。同時に、ひとはグルジが私達個々に溶け込むのを感じる事ができ、完全に無我の愛である透明で輝く明白な気づきである慈愛(マイトリ)に融合されるだろう。

サルバ・マイトリ・マンガラム・アスツ・タタスツ

Joan


Translated by: Ehko Merlo
写真

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