2011年5月20日のマイトリー・スピーチ

2011年5月20日 287

無限の空が地球という形を取り、輪廻が空なる無と解脱に吸収されますように。

月の偉大な明るい輝きのように、世界が信仰で包まれますように。

太陽の素晴らしい明るい輝きのように、世界が完全なる英知に充たされますように。

法螺貝の音のように、世界が法(ダルマ)で響き渡りますように。

金剛杵(こんごうしょ)を持つ者のように、世界が魂(アートマ)、至高の魂(パラマートマ)そして無我 (アナートマ)という愛を確固として保持しますように。

八連の蓮の花が反射して映ったような形であるように、世界が徳、英知、瞑想の中に包まれますように。

弥勒菩薩、そして全ての宗教の信者に合掌します。

世界の平和と全ての生き物が自由になる最も純粋な方法を探すための六年間の瞑想を完成出来ました。

今日は幸運な時であり、そして得難き聖なる日です。

このカリ・ユガ(暗黒の時代)において、この世は輪廻の罠にはまりながら、当てもなくさまよう世界に変わりました。

弥勒菩薩(マイトレーヤ)の愛と哀れみにより、この時代の環境の影響を受けてしまった世界を私は目覚めさせているところです。

世界がこの事を理解する事は不可能です。

弥勒はこの世に四回来た事がありました。

しかし、声だけ残して去って行きました。

今から三万五千年前は徳・英知・瞑想が存在したため、何千人という菩薩が阿羅漢(高次の悟りに達した者)になる事が出来ました。

その千年後、二人の姉妹が生まれました。

その時、姉は菩薩の形を取りました。

妹は奇跡的な完成に達し、輪廻を壊そうとしました。

この二人の姉妹の名はシュラバン菩薩とモヒナでした。

そして釈迦家に、ゴータマ・シッダルタ仏陀が前生の瞑想の結果として生まれて来ました。

ゴータマ・シッダルタ仏陀は過去に行なっていた瞑想を探し、再びそれに集中するために出家しました。

過去世を思い出す瞑想を続け、過去世を知る完全なる英知( Purva Gyan Siddhi) を得、この世に徳・内観・三昧(瞑想)のシステムを再び確立しました。

最後の涅槃に達した時三昧(精神集中が深まりきった状態)に入り、主弥勒菩薩のダルシャン(神の御姿の拝見)を受ける事ができました。

今から二千年前、私はこの世におり、その時一人で瞑想していました。

当時は非常に野蛮な過度期の時代で、その中私は殺害されました。

75日後に自分は死んだ事に気がつきました。

このような世界を解放するため、二千年もの間、意識体でさまようのは苦しい事でした。

突然雷の音がなり、私は母の子宮から生を受ける事ができました。

「 生まれてすぐ、お前は瞑想に入るだろう。」

このような考えが私の潜在意識の記憶にのしかかっていました。

母の子宮や愛の接触を通して忘れていた世界(目標)が、6、7年後に思い出されました。

ある日、白い衣をまとった立派な人が現れました。

日々、過去の瞑想がよみがえって来ました。

しばらくして8歳か9歳の時、奇跡的なビジョンを目にしました。

私の村ラッタンプールから少し離れた所に、タールー族の一家が遺体を火葬するためにやって来ました。

その時私は何人かの友だちといっしょに遊んでいました。

突然、燃えさかる火葬のつみまきに目が行きました。

そこに、さんさんと輝く光が空を射すビジョンを目にしたのです。

その輝く光は緑と黄色でした。

その時から日々、過去の英知を呼び起こす事ができるようになりました。

あの火葬のつみまきの明るく輝く光のおかげで、ひとは死後と同じように、解放され得る事を益々認識していきました。

その後、過去に行なっていた瞑想がよみがえりました。

輝く光が起きるため、一人でゆっくり集中する所が必要になりました。

過去の瞑想の回想のため、第七チャクラから始まり、ブラフマ・チャクラまで到達し、煩悩と幻影(魔羅)が破壊され、目に見えない光の房が体に入って来ました。

その段階で、水、空気、空、大地、太陽と一つになり、栄養は全て瞑想から得る事ができました。

そして体の機能はその状態をゆるめ休止状態に入る事ができました

10ヶ月間ずっと同じアーサナ(ポーズ)で座り続け、地面の冷たさ、風雨、冷たい霧のため、体を覆う布がとても薄くなりました。

振り向くと、シロアリが登って私の服を食べていました。

体を動かそうとしたら、全身が固まっており、体は空腹感も暑さ寒さも感じられなくなり、私が行なう集中的エネルギー浄化の修行(tapasya chary)に、周囲は疑惑の目を向けていました。

この日常の苦行は、とても世間では受け入れ難いものでした。

今日でさえ、沢山の疑い深い人々が見受けられます。

内在する弥勒の理解に到達できる者は、肯定的で真実に溢れます。

間違った形をとる者は、罪を償い、悲観にあけくれます。

偉大なる乗物(マハヤナ・ダルマ・カヤ)の宇宙体を求めるかたわら、この肉体の集合体が残らなかったら、この世に何のメッセージを送る事ができるでしょうか。

それからしばらくの間、世界の救済のために受け取った英知について一心に瞑想をしていたある日の夕方、天からの声がしました。

「タパシャムニ(苦行僧)よ、死んでしまいますよ、起きなさい。起きるんです!」と。

その時、祝福されしその聖なる御姿に直面し、その両眼は緑と黄色の光で輝いていました。

その光は体に入り、火の力が顕現されました。

そのビジョンの後ちょうど、不満を持つ者たちがこのやせ衰えた体を襲おうとしているところでした。

やせ衰えた体の記憶していた思考に変化が訪れました。

初め瞑想していた場所から南に向かって、一人で居られる場所を探しに行く時、古くからいるメンバーを思い出しました。

そして心配させないように、樹の下で朝から待ちました。

朝8時か9時に足音がし、七人の人々が人里離れた密林の中に、信仰と献身に洗われた心で目に涙を浮かべ私に会いに来ました。

この七人は前世でダルマを修行していた人々でした。

信仰と献身に洗われた心で涙を流しながら、「私達に何が足りなかったでしょうか。」と、愛と慈悲を表現していました。

私の説明で皆がわかってくれ、全ての事を後に残し、私は自分の道を探し続けました。

そこから長い旅を九日間、目を覚ました瞑想 (Jagrit Dhyan)をしながら進みました。

象や虎、カモシカ、熊、豹、野生馬、猿、兎、孔雀、そして他の生き物や鳥、植物、木々であふれたジャングルを通り抜けました。

チトワンに潮流の間を流れている川があります。

夜その川を渡って、瞑想状態で南に向かっていた時です。「バルムニ(小坊主)よ!体に気を付けるのですよ。さもなければ、存在できなくなりこの世に伝授する事ができず、そしてダルマの形も消えてしまいます。」という声がしました。その聖なる声を聞き、再びハルコーリアに向かって行きました。

ハルコーリアに到着してから、私を6年間探さないようにと言っておいたのですが、恥を感じず、ハルコーリアの北東の丘で洞窟を見つけました。(それは雨期に動物が隠れるための穴でしたが、体を隠すのに充分な大きさでした。)

洞窟の中で三ヶ月間水も空気も太陽の暖かさもなく過ごしていた時、猟師が動物を探しに来ました。

その洞窟は猟師に見つかってしまいました。

哀れなその猟師は動物の肉が欲しくて外で待っていたのです。

「誰だ?人か動物か?』猟師がそう三回叫ぶと、私は洞窟から手を上げて出て、頭も見せました。

動物の肉が欲しくて欲しくてたまらなかったその哀れな猟師は立ち去って行きました。

ジャングルのため、植物のため、同様に猟師のためにも、この世が幸せでよくなるように、私は弥勒菩薩の瞑想を続けています。

ハルコーリアの祈願成就の菩提樹や、バーグジョールのシンドウリの樹の下に座り、魂・体・ことばで、この世のため輪廻を見つめる事に専念し、何千という感覚の啓示、英知の啓示、ハルコーリアの祈願成就の樹と心地よいバーグジョールの密林での瞑想の啓示、この世の存在の循環の悟り、そしてダルマの様々な様相の喜ばしき内観を得ました。

ハルコーリアでやせ衰えた体で一人でいたある晩、どんよりと曇り突風が起きた大気の中、魂(アートマ)と至上の魂(パラマートマ)の間に吸収され、主弥勒菩薩とのダルシャン(直面)を得ました。

弥勒菩薩からの直接の啓示や教えは、まだこの地球に伝える事はできません。

悟りの英知において、我々は皆同じ五大要素の体があり…、

…それと同様に、存在という世界の循環を愛と哀れみに変えるため、全世界が地球に対し同じ気持ちとなるという愛の心に浸る事が望みです。

世界観を通して魂・体・ことばを見ながら、植物を含めたいきと生けるもののため、世界中に世界平和大祈願を広め、徳と瞑想の英知に重きをおいて、全宇宙の真実の理解を教えていきましょう。

完全な悟りは英知、徳そして瞑想を通じて到達できます。

物質的な楽しみや快適さだけでは、人生における解放の道には到達できません。

徳や規則を守れば、世界の物質主義と同時に生死の循環から解放されます。

そして、もし宗教の名において霊的な華やかさを見せびらかせたり、奇跡を実演したりするのであれば、ダルマの法に反します。

ダルマの法は、輪廻から解放されずに苦しんでいる衆生を自由にしてあげることであり、衆生に解放の道を示すのがダルマの法です。

続く苦悩、不安や恐怖、悟りのための修行、神聖な目、非常に純粋な理解を超えた知識、大いなる哀れみ、そして悟りを開いた心は、無限の潜在力の啓示です。

この世の衆生のために捧げられ、捧げる…。

三昧(瞑想)が形をとる所はどこでもダルマが存在します。

この世で弥勒の意識(慈愛)に到達する者は誰でも

至上なる魂(パラマートマ)と一体になり、三昧のアムリタ(蜜)を飲む者は誰でも

内なる魂が弥勒の英知の力と光を持つまで上った者は誰でも…

…弥勒の愛という理解の扉と世界への思いの扉を開きます。

真実なる者、偉大なる者、仏陀なる者の直接の顕現が得られます。

あらゆる人の命の永遠なる存在がある所はどこでも、人生の完成はダルマです。

ダルマの完成には無があります。

無の境地に達せば、悟りがあります。

無と悟りは無形かつ不明瞭で

物質的な享楽の記憶という石より硬いのです。

悟りの英知の中には平安があり、原理があり、世界を解放することができます。

「そうでありなさい。」「そうでありますように。」

いきとし生けるものが幸せでありますように。

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